さようなら そしてありがとう
両親は共働きで、父は単身赴任、母はバスガイドをしており全国を駆け回り、月に一度家にいたらいい方でした。
私たち兄妹は、母方の祖父母に育てられました。
私が中学校入学までは、祖父の車で出雲から松江の小学校に通学する毎日でした。
私が大学で福岡にでると決まった時、祖父母は寂しがりました。
私自身、母方の祖父母が大好きでした。
祖父母には、10人の孫(私の従兄弟ですが・・・)います。
孫の中で祖父母と過ごした時間は、私が一番長かったと思います。
福岡で住むようになり、帰省することを心の底から待っていてくれした。
帰省すると祖父は、鶏肉をジンギスカン鍋で2キロも焼いてくれるのが常でした。
そして、席に着くと「おいしいか?」と必ず聞いてきて、「まだ食べてないよ~」と会話をいつもしていました。
福岡に行って2年ぐらいたった時から祖父が痩せて行きました。
末期のガンでした。
学校も休みに入り、バイトも休みが取れたため2週間後に帰省するとTELした数日後、
祖父は他界しました。
慌てて帰省し、祖父の横で泣き崩れたところに祖母が来て、なんでもっと早く帰って来なかったかと泣きながら責めました。
その後、自分が死ぬときは、死んでからではなく看取られて死にたいと言いました。
7月27、28日と山口県に出張に出ていました。
15:00に仕入れ先との打ち合わせが終わり、帰宅しようか仲のいい得意先に行こうか悩んで、得意先に行くことに決め向かいました。
16:15に到着しましたが、外出中で戻られるのを待ちました。
17:00前に戻られ、17:40まで話をし、帰路に向かった矢先の17:45
妹からの着信でした。運転中だったので慌ててイヤホンをつけ出ると、
泣きじゃくって何を言っているのかわからない状況でした。
訃報でした。
大好きだった祖母が17:11亡くなった知らせでした。
あまりの唐突なことで現実が受け入れられず、涙は出ませんでした。
祖母宅へ向かう約3時間半、動揺している自分を落ち着かせるためだったのでしょうか、伯父、伯母、従兄弟等とにかく電話をしまくり、半分以上は誰かと話をしながら向かいました。
到着し祖母の顔を見た瞬間、ダムが崩壊したかのように涙があふれました。
声をあげて泣きました。こんなこと何年ぶりのことでしょうか。
子供たちが驚いていました。
祖母は眠っているようでした。
声をかけると起きそうでした。
1か月前から食事の摂取ができなくなっていたようです。
26日点滴をし、お腹を下してしまった様子で、お腹が痛いと言うのが最期の言葉になったそうです。
28日は、足が立たなくなっていたので、市民病院にいきましたが、点滴で栄養を摂取すれば回復すると診断され、入院準備をし、点滴している祖母のおいて看護師さんと打ち合わせが終わり、祖母に帰ると伝えるために祖母に話しかけたら、返答がなかったそうです。
最初は寝ていると思ったそうですが、様子がおかしいと気づき、先生を呼んで30分の心臓マッサージをしてもらいましたが、そのまま帰ってきませんでした。
あまりにも急なことでした。
医師もまさか亡くなるとは思わず、退院後は施設を紹介するなどと話をしていたそうです。
本当に寝ているかと思う感じでした。
今までの思い出がたくさんあります。
忘れられないことばかりです。
ばあちゃんの作った、親子丼やおこわ、オムレツ、生姜の醤油付け、数の子・・・・・
本当においしかったです。
学生になってからは、一緒に喫煙して悪い二人だと笑いました。
ようこさんを連れていったとき、すごくやきもちを焼きました。
娘を連れていくと難しいばあちゃんが受け入れてくれました。
とにかく思い出がいっぱいで・・・・
祖母の家は、神教のため仏さんではなく、御霊さんが祭ってある祭壇の引き出しには
祖母は大切なものをしまう癖がありました。
何年振りかに開けてみると、私の送った年賀状、昔書いた似顔絵、手紙・・・
いつしまったのか・・・
家族関係図がありました。
昭和14年が最初のページでした。
祖父が祖母のもとへ婿に来たのが・・・・昭和21年7月28日でした。
祖父は祖母がいないとだめな人でした。
祖父が迎えに来たのだと感じました。
祖父と祖母は、仲がいいのか悪いのかわからない夫婦でした。
夫婦喧嘩はそれはまぁすさまじかったです!!
包丁が出たこともあり、小さかった私は家を飛び出て近くに住む伯母宅に公衆電話から電話したこともありました。
ただ、祖父が他界してから祖母は寂しくて仕方なかったようです。
おそらく祖父母のことは永遠に書き続けることができると思います。
おじいちゃん、おばあちゃん ほんとうにありがとう
大好きだよ!!
おじいちゃん、おばあちゃんが心配しているお母さんのことは任せておいて!!
心からご冥福をお祈りします。。。。
ばあちゃんのおかげでこんなに家族が増えたんだよ!!
私たち兄妹は、母方の祖父母に育てられました。
私が中学校入学までは、祖父の車で出雲から松江の小学校に通学する毎日でした。
私が大学で福岡にでると決まった時、祖父母は寂しがりました。
私自身、母方の祖父母が大好きでした。
祖父母には、10人の孫(私の従兄弟ですが・・・)います。
孫の中で祖父母と過ごした時間は、私が一番長かったと思います。
福岡で住むようになり、帰省することを心の底から待っていてくれした。
帰省すると祖父は、鶏肉をジンギスカン鍋で2キロも焼いてくれるのが常でした。
そして、席に着くと「おいしいか?」と必ず聞いてきて、「まだ食べてないよ~」と会話をいつもしていました。
福岡に行って2年ぐらいたった時から祖父が痩せて行きました。
末期のガンでした。
学校も休みに入り、バイトも休みが取れたため2週間後に帰省するとTELした数日後、
祖父は他界しました。
慌てて帰省し、祖父の横で泣き崩れたところに祖母が来て、なんでもっと早く帰って来なかったかと泣きながら責めました。
その後、自分が死ぬときは、死んでからではなく看取られて死にたいと言いました。
7月27、28日と山口県に出張に出ていました。
15:00に仕入れ先との打ち合わせが終わり、帰宅しようか仲のいい得意先に行こうか悩んで、得意先に行くことに決め向かいました。
16:15に到着しましたが、外出中で戻られるのを待ちました。
17:00前に戻られ、17:40まで話をし、帰路に向かった矢先の17:45
妹からの着信でした。運転中だったので慌ててイヤホンをつけ出ると、
泣きじゃくって何を言っているのかわからない状況でした。
訃報でした。
大好きだった祖母が17:11亡くなった知らせでした。
あまりの唐突なことで現実が受け入れられず、涙は出ませんでした。
祖母宅へ向かう約3時間半、動揺している自分を落ち着かせるためだったのでしょうか、伯父、伯母、従兄弟等とにかく電話をしまくり、半分以上は誰かと話をしながら向かいました。
到着し祖母の顔を見た瞬間、ダムが崩壊したかのように涙があふれました。
声をあげて泣きました。こんなこと何年ぶりのことでしょうか。
子供たちが驚いていました。
祖母は眠っているようでした。
声をかけると起きそうでした。
1か月前から食事の摂取ができなくなっていたようです。
26日点滴をし、お腹を下してしまった様子で、お腹が痛いと言うのが最期の言葉になったそうです。
28日は、足が立たなくなっていたので、市民病院にいきましたが、点滴で栄養を摂取すれば回復すると診断され、入院準備をし、点滴している祖母のおいて看護師さんと打ち合わせが終わり、祖母に帰ると伝えるために祖母に話しかけたら、返答がなかったそうです。
最初は寝ていると思ったそうですが、様子がおかしいと気づき、先生を呼んで30分の心臓マッサージをしてもらいましたが、そのまま帰ってきませんでした。
あまりにも急なことでした。
医師もまさか亡くなるとは思わず、退院後は施設を紹介するなどと話をしていたそうです。
本当に寝ているかと思う感じでした。
今までの思い出がたくさんあります。
忘れられないことばかりです。
ばあちゃんの作った、親子丼やおこわ、オムレツ、生姜の醤油付け、数の子・・・・・
本当においしかったです。
学生になってからは、一緒に喫煙して悪い二人だと笑いました。
ようこさんを連れていったとき、すごくやきもちを焼きました。
娘を連れていくと難しいばあちゃんが受け入れてくれました。
とにかく思い出がいっぱいで・・・・
祖母の家は、神教のため仏さんではなく、御霊さんが祭ってある祭壇の引き出しには
祖母は大切なものをしまう癖がありました。
何年振りかに開けてみると、私の送った年賀状、昔書いた似顔絵、手紙・・・
いつしまったのか・・・
家族関係図がありました。
昭和14年が最初のページでした。
祖父が祖母のもとへ婿に来たのが・・・・昭和21年7月28日でした。
祖父は祖母がいないとだめな人でした。
祖父が迎えに来たのだと感じました。
祖父と祖母は、仲がいいのか悪いのかわからない夫婦でした。
夫婦喧嘩はそれはまぁすさまじかったです!!
包丁が出たこともあり、小さかった私は家を飛び出て近くに住む伯母宅に公衆電話から電話したこともありました。
ただ、祖父が他界してから祖母は寂しくて仕方なかったようです。
おそらく祖父母のことは永遠に書き続けることができると思います。
おじいちゃん、おばあちゃん ほんとうにありがとう
大好きだよ!!
おじいちゃん、おばあちゃんが心配しているお母さんのことは任せておいて!!
心からご冥福をお祈りします。。。。
ばあちゃんのおかげでこんなに家族が増えたんだよ!!
by see_more_batt
| 2010-07-28 17:11
| 家族